昭和40年06月20日 朝の御理解



 みなさんはこうして日々、信心の稽古をなさるが、どこに一番焦点を置いて、信心をなされたか。どげんところに一番一生懸命なものを感じられるだろう。どうでしょうか、どこでしょうか。漠然とただお参りをしておる、漠然と、例え日参りがでけておる、朝参りがでけておる。それでは、やっぱ頂きどころがない、掴み所がない。掴む所掴んで行かなければね、私は本当の信心の稽古にはならんと思う。
 私は、朝五時の御祈念にでらせて頂いて、そして十二時まで、七時間ここでこうして奉仕をさせて貰う、私はこの七時間が一番一生懸命。ここの七時間の所に焦点をおいておる。ですから私の有難いと言う原動力がその七時間の信心から頂けておる。と言うても過言ではないと私は思う。皆さんはどうですか、ですからお昼から夜の十時又は十一時まで、もうあの位に、午前中のあの位に一生懸命になれたら素晴らしかろうと、こう思うのですけれども。中々でけません。
 ただ私は、五時から十二時まで、ただ座っとかなければならんから、ただ座っておったんでは、私は喜びは頂けない。とに角十二時まで待ち長うして堪えん。と言う様な事になり兼ねないと思う。皆さんはどうですか。朝参りなら朝参りと、と言う事にです。一生懸命を掛ける。ですから、朝参りをさせて頂く事が有難い。一日の信心生活させて頂く原動力が、朝参りのあのひと時の時間に頂けれると言う、その一生懸命の朝参り、朝の御祈念、朝の教話を拝聴と。
 その一生懸命なものがあればです。朝起きをさせて頂く事が、お参りをさして頂く事が、御祈念をさせて頂く事が、御理解を頂かせて頂く事が、生き生きとして来る、朝の例えば一時間なり二時間なり三時間なりがです。皆さんのその一生懸命のそこに焦点が、おかれるとするなら、ただ毎日お参りを致しとります。毎日朝参りをしとります。御祈念しよると寝むなります。
 御理解頂きよっても「あいた、今日の御理解は、どげな御理解じゃったやろう。」寝むっちょらんごたったばってん、全然頭にのこっとらんと、言う様な事ではです。それから信心の有難い一日を、信心生活させて頂くところの、原動力と言われる様なものが、私は生まれて来ないと思う、どうでしょうか。一生懸命の焦点がです。どこにおかれるかと、雨が降るから、風が吹くから、えらい大儀と思うてはならん、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。
 その一生懸命それが、それが身に徳を受ける修行だと。身に徳を受ける修行なんだ。だから一生懸命に今なれる。雨が降れば降ったで「あぁまた修行させて頂く」と言う元気な心が湧いて来る。雨が降ればしゅうしゅうなる、風が吹けばいよいよ億劫になろ。早う雨が上がりゃぁよかが、早う風がやめばよかが、と言う事になる。私共がです。信心の稽古させて頂く、どこに一生懸命。
 それは、私が例えば朝とか申しましたある方は、夜なら夜と言う所においてあるかも知れません。いいえ私は家業の行なら、家業の行お参りは出来んけども家業の行なら家業の行に。一生懸命焦点をおいとると言う人があるかも知れん。一生懸命それが、身に徳を受ける修行であると言う事になればです。そこから、生き生きとした信仰的、喜びと言うか、妙賀と言うか、喜びの言わば、妙に接する事が出来る。
 頂く事が出来る。喜びの妙を求めて、信心の稽古をさせて貰わんならん信心が先ず、拝む事から始められる。そしてどんなに信心が巧者になっても、どんなに信心がいわゆる玄人になっても、矢張り拝む事になって終わるのである(?)な信心。一生懸命に拝む、一生懸命に御祈念をする。それこそ神様を拝み倒す様にしてから拝む。「どうぞ」と言うてそのお縋りをする。
 そして段々教えを頂き、分からせて頂く事はこりゃ、拝む事だけが信心じゃないと言う事が分かって来る。拝むと言う事はです、信心の稽古をさせて頂いて段々自分で自分の心の中に、自分の心の中を拝みたい。言うなら自分の心に合掌したい様な心がそだって行く事に、焦点をおく様になる。いわゆる教えを行じて行くと言う事になる。場合いによっちゃ段段信心の稽古させて頂いておると。
 本当に、我と吾と我心ば拝みたいごたる心が、だんだん頂けて来る様になる。そう言う何年言わば何十年、今日の御理解じゃないけども、一生懸命にそこに命を賭けてです。自分で自分の心を拝める様な、信心にならせて頂く事に、焦点をおかせて頂いて、それで事がすんでとは思われない、必ず拝まねばならない、今度は矢張り、神様を拝まねばならないところに到達する。
 何故って、私共は矢張り、生身を持っておる凡夫の事であるから、何処にお粗末がご無礼があるやら分からん事が、分かって来るから。と言うて願わねばならん事は、もう山程ある事に気が付くから。信心も出来ませんのだけれども、矢張りおかげを頂きたいから、一生懸命矢張り、神様を拝まなければおられんのであり、一生懸命お詫びさせて貰わなければおられんのである。
 自分が一生懸命、信心に打ち向こうたと言うてもです。神様に打ち向こうたと言うてもです。教えに取り組んだと言うてもです。振り返って見ると、あれもお粗末これもご無礼であったろうと言う事に気が付く。一生懸命御神前に向かって、お詫びしなりゃおられんのであり、またそれで、おかげは要らんと言う訳には、いかんのであるから、矢張り縋らにゃおれん。願わにゃおられんと言う事になるのである。
 今朝ご神前に出らせて頂いたら、この位ばっかり、茗荷のしの茗荷のしの。って言うのがあるでしょう、茗荷花とか茗荷のしのとかって言うあれです。それに一杯この籾ぬかを掛けてある。出来るだけあの籾殻ですかね、籾ぬかじゃない、籾殻っていうんですね。籾殻がこうやって掛けてある。ですから段々この白い所が沢山になって行く訳なんです。みなさんどの様な事だと思われる。
 私共が信心させて頂いて、真に有難しと思う心、すぐにみかげの始と、真に有難いと、真に有難しを求めて信心させて貰う。そう言う事になって来るとです。信心の一日、のならどこか何処かにです。一生懸命の焦点をおかなければ、妙賀と言うものは頂けるもんじゃない事が分かって来る。どうですか皆さん。一日の打ちにです。例えばひと時でもです。信心を頂いている事が有難いなぁと心の底から湧いて来る様な物。
 その時どの様な難儀があっても、どの様な苦しい事があってもです。その妙賀の前にはひとたまりも無い。それでそれがあればある程有難い。その妙賀を求めての信心。そこにはです一生懸命の信心なんです。一生懸命の信心っち言うのは。私共は中々でけませんから、私が今日も申します様に。私は五時から十二時までを焦点をおいて一生懸命神様に打ち向かわせて頂く。
 そこからここ畳半以上の心なからなければ、あの喜びは頂けん、と言う様な喜びを感じさせて頂く事が出来る。それが楽しみなんです。皆さんも例えばそう言う(笑)一日座っとく訳にはいけんから、せめてこうっやって一生懸命で、降る中照る中をです。朝の御祈念にでもお参りをしてみるのであるから、いよいよになればその事。その事にです。朝のお参りならお参りにです。一生懸命の焦点をおきなさいと云う事。
 ただ漠然と御結界に座っとくだけじゃいかん様にです。ただ漠然と朝参りが何年間続いとりますと言う様なこっちゃいかん。一生懸命の焦点をそこにおかにゃいけんと、朝早起きさせて頂く事が、朝の御祈念頂く事が、御理解を頂く事が、生き生きとして来るのです。そこに喜びの妙がある。信心の喜びがある。その喜びが一日を支えるだけのおかげにならなければならないとい言う事。
 朝お参りさせて貰よるばってん、ただ眠いばっかり残ったものは、「えぇと今日の御理解どげな御理解じゃったじゃろう」っち言うて頭にも残ってない。そう言う信心がそう言う朝参りがいかに何十年続いても、私は信心の本当のいわゆる身に徳を受けると言う事にはならないと思う、「これが身に徳を受ける修行だから」と、言う所に一生懸命焦点のおかなければならない。
 成程自分の言うままにはならない、お願いしたからってお願い通りはならないけれども、それは籾殻の様な物かしれん、お米ではない、その「まま」にはならない、その籾殻的な物がです。私共の心のその喜びを一生懸命求めてのそれに掛けられて行く、ですから自分が少ししか出とらんから分からん、籾殻掛けていきよるから、けれどもいよいよその茗荷を掘り出すというか、その籾殻を取らして頂く時にです。
 ( ? )時はどげんな風になっとる。何時の間にこげな喜びが妙賀が育っておっただろうかと言う様にです。その問題の中にも、自分の思いが思い通りにならない事の中にもです。先程の御理解をもっていうならです。目に見えるおかげより目に見えないおかげの方が、こんなにも多いのだと言う事が分からせて頂く時です。信心が分かると言うのは、そこが分かるのだと。
 目に見えるおかげより目に見えないおかげを多き事が段々分かって行くと言う事。皆さん折角日々信心の稽古されるのでありますからです。信心の稽古をそう言う一日中が信心の稽古なんです確かに。けどもその一生懸命と言った様な物、それは何時もかつも出来るもんじゃないと。その一生懸命がです、一日の信心の生活の中にどこに一番焦点をおかれるかと。その一生懸命の中にです、一日を捧げるだけの喜びの妙というものを感じれれる様な、一生懸命というものがなからなければいけないと。
(音声は終わっているが、話はまだ続く感じ)